昭和48年03月14日 朝の御理解



 御理解 第63節
 「一粒萬倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、善い手本になるような信心をせよ。」

 一粒萬倍のおかげ、一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受ける様になる様な信心。善い手本になる様な信心をせよと言う事は、そういうおかげの頂けれる信心をせよと言う事。そういう信心とはどういう信心か。一生懸命にお参りをする。とてもああた達の様な真似は出来んと言う様な信心をする。そういう信心は私はとてもああた達の様なそげな信心は出来んというだけでも手本にはならない事が分かります。
 そら金光様の信心ちゃ、そげん毎日毎日、朝早うから参らにゃならんごたるなら、私だんとても、お参りは出来んというて、信心のない人から見ると、そういう風に見える。ですからそれは、手本になる信心とは言えない。一粒萬倍のおかげ、一人がおかげを受けた為に、千人も万人もおかげを受ける、程しの信心というのは、只参ったから拝んだからという信心では駄目だと。どういう信心が、一番素晴らしい千人も万人も、おかげを受けるようになるか。
 そこで私は自分自身の信心を思うてみた。まあここではいわば、千人も万人もの人が助かる様になってきた。してみると、私の信心は手本になるような信心だったと言う事です。椛目から合楽に移らせて頂く二十数年の間に、それこそどれ程しの人が助かったか分からん。言うなら千人も万人もの人がおかげを受ける様になると、そこでそんなら私の信心が、言うならばここでは手本になる様な信心をした事になる訳です。
 そんなら私の信心はどう言う事であったか、それは成程大坪さんの様な信心は出来ん、とてもあげん一生懸命参ったり修行せんならんならて、皆が言う位でしたけれども、そんならそれが手本ではなかった。私は思うのにですねえ、私は神様任せになったと言う事だと思うのです。私があの時分の御理解の中に「ついて来なされこの提灯に決して苦労はさせはせん」と例えば一つの光というか明りというものをそこに置いておいて、さあこの提灯について来なさいよと、それをここでは親先生任せとこう言った訳です。
 神様任せと言う事は、もうここでは親先生任せだと親先生の言いなさる通りにしときゃおかげが受けられると、もう実に容易い事になってきた訳です。ところがなかなか初めの間はそれを任せられませんよね。任せられませんけれども、まあ任せる、もうどうにも仕方が無いのだもの。手の打ちようがない様々な難儀の場合。もう医者は見放したと言い、もうこういうもうそれこそ、経済問題でもう首でもくくらんならんごと一家中がもう難儀の淵にあると云う時ですから、もうどうにも仕方がない。
 私の前に手を上げて来ん訳にはいかん。先生どうぞよかごとして下さいと云う様なことで、おかげを受けたのが沢山有る。成程親先生が言いなさる通りしてこうおかげを頂いたという、言うならば神様任せになると言う事。神様任せになると言う事がです、私はどういう心配があっても、どういう難儀な事があっても親先生が心配するな、私任せになっときゃ、神様任せになっときゃおかげになると断言して下さるのだから、と例えば今迄感じておった心配やら悩みやらというものが一掃できる。
 そしてそこに体験が生まれて、成程親先生任せになっときゃおかげが受けられるという体験が段々積み上げられていくところにです、私共の日常生活の上に、不安、心配、焦燥と言う様なものがなくなってくる。合楽で二十年も信心が続いておるという程しの人ならみんなそうだと私は思うのです。それは難儀はあります、心配もあります。けれどもです、そういう時にお取次を頂いて、親先生が右と仰るから右、左と仰るから左という生き方をしてさえおれば、おかげになるという。
 確信が出来て来るようになったら、もうその場で心配というものがなくなるでしょうが。だからね、金光様の御信心は、神様任せになる道、神様任せになればおかげの頂けれる道。ですから、神様任せになるのですから心配がなくなる、不安がなくなる。焦燥は勿論なくなる。例えば現在難儀なところを通っておってもおかげになるという確信がある。だから安心がある、喜びが有る。
 わたしはそういう信心ならです、誰でも人の善い手本になる様な信心とは、そううい信心だと思う。そういう信心が本当に そんなら例えば、願った事だけ頼んだ事だけが先生任せじゃなくてです、もう一切合切が神様任せになったらです、という信心にならせて頂いたら確かに千人も万人も助かるようになるでしょう。そういう信心を、私は善い手本だとこう言う事。
 だから皆さんはそこの信心の稽古中のところ、もう難しいといいや難しい。容易というたらこげん容易いことはない。神様が右向けと言わっしゃればハイ、左向けと仰ればハイ、止めとけと仰ればハイと止めれる心なんです。もうこげな楽なことはない。ですから神様任せになると言う事は、その様に楽なことですから、本当に金光様の信心して難儀があっても、心配があっても心配せんで済む。
 難儀を難儀と感じんで済む様に、なるような信心なら、私共もいっちょお参りさせて頂こうかと、言う事になるのじゃないでしょうか。一生懸命にお参りをする。一生懸命に修行をする、一生懸命に拝む、一生懸命お供えをする。そういう信心が手本になる様な、信心じゃ決してないです。いやそれはむしろ、未信の人達の場合はです、とてもそげん参らにゃんごたるなら、私どんちょいとお参りは出来ん、というに違いない。してみるとそれは手本じゃない。
 けれどもその人達を見ておると、一家を挙げての信心をしておられる、信心の姿というものを見るとです、たいして商売が繁盛しよんなさる訳でもない。けれども、一家が円満、いろいろ問題は有る、問題は有るけれども、一家中が信心をさせて頂いておるから親先生はどげん仰るの、親先生は右とおっしゃる。ああそんなら右たいというて一家中の者が右になっていく。
 もうそげな簡単なことで安心が頂け、喜びが頂け、しかもそれにおかげが伴うてくるというならです、人がついて来ん筈がないです。こげな楽なことはない。そげん神様任せ神様任せと言うけれども、そげん馬鹿んごたると言うけれども、その馬鹿のごたるけれども、私共がです、喜びの生活に入れる、不自由せんで済む生活に入られる。例えばそういう道が本当に確立されたらです、こんな素晴らしいことはない。
 だからそういうおかげの、いわば手本を示して行けれる程しのおかげをお互い受けなければならんと言う事になるのです。そこでです、例えばそんなら親先生任せとか、神様任せとかいう、その任せると言う事は、何故そういう素晴らしいおかげになるのかと。今日私、御神前で、テレビでよく宣伝しておりますタバコを飲むときにね、ニコチンを全部吸収してしまうというアクアフイルターとかいうあれを頂くのです。
 金光様の御信心のね、もう最近は一番素晴らしいところ、素晴らしいところを皆さんに聞いて頂いておるんですけれども、もうここが又一番素晴らしいところなんです。成程宗教は阿片だと言う事をいわれます。タバコでも同じ事、飲み出したら止められないと云う訳です。だから参りだしたら参らな気色の悪うなって来る。何か宗教というものはそういう悪いものを持っておるという訳です。
 ところが教祖金光大神の説かれた道であり宗教は、そういう例えば普通の宗教は阿片とか又はタバコの様な内容を持って居ると言う事です。止めたら罰かぶりゃせんじゃろうか、仏罰というのがある。又は罪というのがある。こういう罪を犯しよったら又はこんな事しよったら罰かぶる。もうこれは殆どの宗教がこれを言うです。そうすると、或宗教なんかは又お供えをしなければ助からんという宗教がありますよ。だから家でん屋敷でん売ってからでちゃお供えをする。成程それで助かりよる。
 だからそういうのは、とても見たり聞いたりしただけでもです、ついちゃいけませんよねえ、私共はところか金光大神の道は和賀心と仰る。和らぎ賀こぶ心を目指して行くと言う事。そこには罪もなければ罰もない。お供えしなければ助からんと言う事もない。いうなら灰汁が無い。例えば今の漏過器の様なものにかけて灰汁を取って仕舞った様な感じの宗教です、金光教は私は今朝からそうういお知らせを頂いてそう感じた。もう実に爽やかである、清らかである。もうさらさらとしておる。臭さみがない。
 これはもうあらゆる宗教を勉強してご覧なさい。もうそういう一つのくさ味というのが、成程これを飲んでいきよったらそれこそ、ニコチンで体が害されるだろうと言った様なところに直面しますです。ところが、教祖金光大神の道はそれがないというほどしの信心。そんなら私が今、皆さんに聞いて頂いている様に、別になあにも他の手だてはいらん。もうとにかく神様任せに成ると言う事なんです。こげなスッキリとしたあっさりとした話はないでしょう。
 そげん神様任せになると言うたっちゃというて二の足踏むごたるけれども、実際にどうにも出来ない。もう神様の前に手を上げるより他にないときにはです、任せるより他にないし、任せる事に依って、そんならそこに成程と体験が生まれて来る。心がいつも安らいでおる。安心しておれれる。只本当にどの様な場合でも素直に任せられる素直な心を本気で創らせて頂こうと言う事に精進するだけで良いと言う事なんだ。お供えしなければ助からんじゃない。そげなこつしよると罰かぶると言う事もない。
 そう言う事は罪になるぞと言う事もない。そういう例えば宗教を、私はあくの強い宗教だと思う。悪とは只タバコの悪というものじゃなくて善し悪しの悪です。いわば宗教悪なんです。宗教悪と言う様なものがです、金光教にはもうさらさら無いです。もうこれも私は今日頂いて改めて金光大神の偉大性と言う事を皆さんに聞いて頂いておるが、本当に素晴らしい事なんです。何々宗それは生臭気は食べられん、酒は飲まれんとそういうものがさらさらない。何でも有難く有難く頂いて行く事だけを教えておられる。
 皆さん本当に折角金光様の信心を頂いて居るのですから、その金光様の信心がこの様に素晴らしい信心だと言う事を分かって確認して、そしてこの宗教ならばいくら打ち込んで行ってもよいというところの見極めがついて、もう一つ身も心も本気で任せられる、一切を任せられる信心にならせて頂こうという意欲というかね、そういう願いの元に信心はなされなければいけません。
 自分の都合のよか時だけ任する。自分で都合の悪か事は任せられない。これではね、本当のおかげは、いわば今日頂いております千人も万人も助かる程しの、いわゆる一粒万倍のおかげとか善い手本になる様な信心とは言えんのです。とにかく親先生任せになっておればおかげの頂けれる道ですよという信心をです、頂かにゃいかん。そういう信心を身に付けさせて頂く、本気で素直にならせて頂くことの為の精進が日参りであり夜参りであり、又は修行であると言う事になるのです。
 それはだから第二段階、第三段階のものなんです。問題はその素直心というものが、久富さんが頂かれたあの御教えの様にです、「何事も素直心の一つにて、雲の上まで登る道有り。」という道がついてくる。雲の上と言う事は、生神金光大神、生神、神になれれる道だというのです。もう私は金光様の信心はね、この御教えいっちょ頂いただけでも大変な宗教だなと思います。
 だからあらゆる宗教を統一してしまわにゃならんとか言う事じゃなくてです。あらゆる宗教がそういうところに、そんなら金光教という一つの漏過器にかけてあらゆる宗教があればその宗教は生き生きとしてくることになる訳ですよね。いわゆる教祖金光大神が世界の金光大神と云う主役を務めなさる事になってこなければ人間のだから本当の幸福と言う事はあり得ない事になる。
 さあそこで皆さん今日は、その任せると言う事、任せると言う事が何故その様におかげへの道につながるかと言う事なんです。ここ合楽の前身が椛目でしたが、その当時宗教法人金光教神愛会と呼んでおった。神愛会、神愛、神の愛,神の愛というものはその相手、いうならば椛目にお参りをして来る。合楽にお参りをして来る。して来た人をね、神愛とはね、もう殺さねば止まんという心なんです、相手をそらもう合楽に参りよると殺されると云う意味の殺されるじゃないですよ。
 相手を殺して仕舞うと神愛と云うのはもう本当に厳しい言葉でいうとそうなんです。これだけで皆さん分かるでしょう。一切を任せると言う事は、もう私はこれは愛の本質だと思う。例えば恋愛でもそうでしょう。相手を殺さねば止まんという心が愛です。自分の思うようにしてしまわなければ承知がいかんと言う様なものが有るでしょうが。自分の側にいつも置いておかねばおかんという心が愛です。
 神様が私共をです、いつも自分の側に置きたい、いつも自分の思いの中に置きたい。それが神愛です。ですから、成程神愛を受ける筈でしょうが。任せると言う事はその様な事なんです。神様任せとか親先生任せと言う事は、自分の我情とか我欲を一辺捨てきって神様の心に突入すると言う事。一つになると言う事。一つに溶けると言う事。これが愛の本質です。これは自愛とか恋愛とか様々な愛と名が付く全てがそうです。
 まして神愛、神の愛というものはです、もう自分の中に全部納めてしまいたい、いうなら殺して仕舞いたい。相手の意志を、無くさせて仕舞いたい。相手の行動を自分任せにしたい。ですから、自分というものを空しゅうする。相手を空しゅうさせると言う事ですから、もう死んだのと同じ事でしょうが。又殺すことと同じ事でしょうが。昨日も御理解に頂きますように、氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになって下さる、と言う事が分かるでしょう。
 成程氏子が神様任せと言う事が先でなからにゃならんと言う事が分かるでしょう。神様が私共の方へ死んで下さるという訳にはいかん。いうならば神様の前に無条件降伏をしておるという姿が神様任せです。神様が願われるのはそれです。無条件降伏です。だから、右向け左向けと言われる通りの事をこちらがする。もう自分の意志というものを働かせない。それをここでは人間心という。
 人間心をとりなさい、人間心をとったら心配はない。人間心で考えよったら腹が立つ。それがそうなんです。私は今日はその愛の本質と言う事がね、相手を殺さなければ止まんという心、相手を自由自在にしたいという心。これが愛の本質です。だから夫婦仲が悪かつはですね、もう親父のいう通りにならんとです、又は家内の思う通りにならんとです、愛し愛されるというものが無いのです。だから仲が悪くなるのです。恋愛そして結婚、もうそこには一つになるもの、それが私はまぁ完全な結婚だと思います。
 愛することも楽しい、又愛されることも有難い。天地の親神様の、いわば愛の中に私共が包まれてしまう。ここだけは任せられんというたら、もうそれは本当の神様任せじゃない。一切が神様任せの生活、それが本当の意味に於ての信心生活。だから神様任せにさえなっときゃあ、おかげになるという安心。どういう心配があってもお取次を頂かせて貰うてそれは右がよかばい左がよかばいと言われる通りの事をしておけばよい。人間心、人間の意志を取り払うことを、我情我欲を取るとこう言う。
 そこは神徳の中に有る。いわゆる神愛の中に有ることを、実感する程しのおかげが頂かれる。成程神様の御守護の中にあるのだなと、日々神恩報謝の生活が出来るようになる。そういう信心が、私は千人も万人も助かるような信心とは、そういう信心だと思う。しかも私が今日説いてきたところをずっと思うてご覧なさい。お供えしなければならんとか、どうこう言う事じゃなくてです、金光様の御信心は、神様任せにさえなって行けば、おかげになるという道なんです。
 それを極めた上にも極めて行こうと、臭味がない、きばりがない、そして神様任せになることがこの様に素晴らしいことだ。何故素晴らしい事なのか、それは神愛の中に包み込まれてしまうからだ。神様から殺されて仕舞うからだ。だからこちらもそんなら、私という者を空しゅうするという心が、なからにゃいけん。自分の我情我欲を離れると言う事は、自分を空しゅうしてしまう事。
 神様任せになると言う事がね、おかげを頂くと言う事が分かるでしょう。理屈の上でも一生懸命にお参りをする。そう言う事だけが、決して人の手本になるという信心じゃない。それだけだったらもし未信の人が、金光様の信心させて頂きたいばってん、あの人のごと毎日参らんならんのなら、もう出来んともうそれだけで心が縮んでしまう。所がです毎日参らなければおられないその根本の所がです。
 神様任せにならせて頂く稽古の為の、言うならばだから神様任せになる稽古、信心の稽古とはそういう稽古をする事だと言う事になって、事実私がおかげを受けて参りましたらです。私の方の一家を見て下さい、別にどうと言う事もないけれども、もう何時の場合でも親先生が中心神様が中心。もう親先生の仰る通りしとりゃ、こうしておかげを受けとりますという手本をです、示すならば誰でもついて来なけりゃおられん。
こげな心配な時にそげな心配せんで済む道があるとするなら、そういう道は体得せにゃいけんと言う事も感じるだろうと思うです。そういう信心を今日私は善い手本になる信心だと聞いて頂いた。同時に一粒万倍とか、一人がおかげを受ける為に千人も万人もおかげを、成程そういう信心に私共がなりきった時にです。確かに千人も万人もの人がついて来るようなおかげになってくると思うです。
 それをそんなら、私自身がです、もう一切を神様任せでです、信心の稽古をさせて頂いておったら、事実千人も万人も助かる様になったという事実がある。だからこれは、私の事を聞いて頂いた。同時にそんなら任せると言う事から愛の本質と言う事を聞いて頂いた。任せると言う事はそういう意味合のものであるから、おかげを頂けれる道理であることを聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。